どうも。このブログの読者の一人、脱ぼっち少年です。小生は心理学の初歩でさえも知らぬ存ぜぬ者ですがはき出してみたく候。長い長い戯れ言ですが暇つぶしにでも。
みなさんは表題のように「ああ、もう人生やめよっかな。」って思うときはありますか?
小生の場合いろんなきっかけがそう思わせます。例えば、
「成績が〇〇(友人)よりも悪い。親に怒られる。(何事にも比較されるということ)」
「世の中がどう見てもおかしい。なのに何も良くならない(小生ではどうにもできないとわかっていても見逃せない、許せないこと)」
「小生がやっていることって本当に役に立つの?(自信がないこと)」
くらいですかね。今、ちょうど選挙がスタートしましたけど、まさにそんなことばかりで・・・。どうにも息がつまりそうです。
でも、小生が生きて、こうして書いているのは少なからず今この瞬間は「人生をやめよう」などとは考えていないわけで。もちろん小生はもっと深刻に悩んでいらっしゃる方と比べて軽いという感じでしょう。それは否めませんし、もしかしたらその方々に失礼なことを言ってしまうかもしれません。そんな小生が偉そうかもしれませんが、一応小生自身のサーチやゆきのさんとの出会い、感性で掴んだ生きる理由を少しばかり。
まず、自分が「人生をやめよう」と思ったとき。
こんなツイートをしてらっしゃる方がいました。
「肉親が亡くなった時、なぜかそれほど悲しいという感情にならず涙を流せない自分に幻滅したり、でも親友が亡くなった時、人目をはばからず大泣きできた自分に少し安心してしまったり、いつでも自分を客観視していることに嫌な自意識を感じつつ、でも結局そんなものなのかなとも思う。」
実は最近の小生はまさにこのツイートのような感じでして・・・。なんとも気持ちが悪いのです。何度も自分をひたすらに第三の目を自分の脳内で量産していくような・・・。
でも、こういった思考って多くの普通の人から見れば飛び抜けてますが、とても思考が広い、つまり視野狭窄に陥ってないと思うんです。
これってきっと人間が生きる上で忘れてはならないことだと思うんです。人間は一人では生きられないのだから、当然最低でも自分を含めて二人分のことは考えないといけない。それがたとえ「ぼっち」でもです。あなたはどうやってごはんを食べますか?どうやって寝ますか?どうやってネットをしますか?どうやってその思いに至る前まで生きていましたか?
今、手を止める前まで何をしていましたか?
ゆっくりでいい。
いろんなことを想起してください。
これは小生の実際に考えていたことですが、小生は複雑な家庭でして、正直な話をすれば「自分が生まれたことで親族の幸せを奪った」と考えて、自分が生きていていいのか真剣に悩んでいました。キリストのように高尚な「贖罪」ではないですが、小生は生まれながらにして罪人なんじゃないかと。
そんなときにふと思ったんです。「人は俺の死にどこまで悲しむのかな」って。そして葬式の風景を幽体離脱した自分が想起できて、そこで誰が泣いてるかって思ったときに、俺の一番のダチの一人が下唇をかみながら俺の棺にいろいろ言葉をかけていて。その瞬間に、妄想だって、想像だって、理想だって、仮定だって言い聞かせても、そのダチを思うと今度は死んだ自分が何か申し訳なく思えてきまして。そいつの人生でおそらくパズルのピースの一つであろう自分が欠けちゃいかんのかなって。
ゆきのさんとの出会いもそうです。初期の頃からお世話になってますし、相談にものっていただいてます。ずいぶん前には「そーぶラジオ」なるTwitter上の催しにも参加させていただいたこともあって、そこでの出会いでFFのおつきあいをさせていただいている方もいらっしゃいます。
「これからは出会った人と友達のために生きよう」を思うようにしました。そしてそういう運の良さにも感謝しようと。
長くなりますが、最後に、思っている人へのアプローチについて。
これは極端な持論です。きっと「は?」ってなる方も多いと思います。
上記のことからも推察していただけるように、「人生をやめよう」と思ってしまう方はどうしても視野狭窄になってしまうのではないかと思うのです。もちろんいろんな過去があって、トラウマがあって、失敗があって、その苦しみを一番知りうるのは本人だけです。だからこそ他人がそこから救い出すことはとても大変なことで、難しいことであると思います。言い換えれば、上記で小生が言ったことも本人次第と言うことになってしまいます。
じゃあ、仕方ない。その人の心が弱いから。その人が失敗したのが悪いから。その人が立ち上がることができないのがいけないから。世の中は厳しい。弱肉強食は当たり前。負けたやつに食い分なんてものはない。
確かにそうでしょう。でも、それはきっと正解じゃない。間違っていると思いたい。
そうさ、まだ小生は学生、ゆえに社会の厳しさなんて知らないさ。だからこそ言えることかもしれない。いや今だから残せるこの文章が、この足跡が重要なんだ。
単なるうぬぼれかもしれない。自己満足でもいい。自分が信じるゆえに正解に向かっていくには?
小生は出会って、友達になった人(小生の場合けっこう厳格な条件がありますが)といろんな思い出とか、話とかできるだけ時間をとるようにしています。本当に役に立っているかはわかりませんが、とりあえず時間という共通の概念を共有することを大切にしています。
先ほども言ったように、つらくなったとき、人はきっと視野狭窄で自分だけになってしまうでしょう。自分はその段階で、その人がその最期の前にもし一瞬でも、光の速さくらいの時間でもそのマイナスな思考に隙間があるなら、そこに小生の記憶を埋め込みたい。
ある日、「気がついたら俺は逝ってるで」という彼に小生は言いました。
「別に逝く分にはいいさ。なにせこの個人主義の時代だ。でもな、俺はもしも気がつく前のほんのわずかでいい。俺とか、他のダチのことが浮かんで『あいつ元気かな』って思ってみてほしい。思ってもらえるような友になりたい。そのときは声をかけろよ」と。
はい、自己満足で、偽善で、他力本願な部分も多い。でも自分にはこれしかない。ゆきのさんをはじめとした心について考察を深めていらっしゃる方々には遠く及ばないやり方ですが、少しずつ、徐々にやっています。
長くなりました。最近は論説調の文を書くことが多く、趣味に時間をかけられなくて困っていた矢先に、ふとブログが目に入って暇だし、思ってることを自分の思考を整理する意味も込めて、誰も寄稿していない「闇」に勝手に書かせていただきました。(ゆきのさん、ごめんなさい。)
深夜に書いていますのでテンションもおかしい中、書いておりますので文章などおかしい部分も多いかと思います。長い文を最後までお読みいただいた方、本当にありがとうございます。あくまで小生の所見ですので、その点お許しください。
最後に、今後の本ブログの益々の盛況を期待して本稿の結びとしたく思います。
失敬。