どうも、こんばんは。脱ぼっち少年です。
寒暖の差が激しくなっていてはいますが、皆さん体調はいかがでしょうか。
小生は風邪を引いてしまいました。咳がひどくて苦しいという感じです。2日も休んだので明日こそ学校には行きますが・・・。
今日はタイトルの通りです。世間では避けて通れぬ「比較」です。テスト、スポーツ、金、人望、名声・・・。ありとあらゆるものの多くが比較の対象だと思います。皆さん、いろいろなとらえ方があると思います。そこから悔しさを感じて努力するように、前向きに捉えられる人もいれば、そこでやめてしまう人、他のことを始める人、人生を投げ出す人、幼児のように泣きわめく人・・・。いろいろなパターンがあると思います。比較されること自体が納得できない人、その方法が腑に落ちない人などもいると思います。
でも、比較方法の如何はともかく、世の中がこうして発展し、小生が生きていて、読者さんが生きていて、その多くがおよそ比較による切磋琢磨のおかげでしょう。現実に社会主義国はその力を衰えさせているわけですから。それが普通。それは皆さんも納得しているというより、納得しなければならない点だと思います。現実はそう甘くないし、厳しくもない。ある一定のレベルの人なら理解していただけると思います。
さて、それをしてもいい、されてもいい人って誰でしょう?
学校やクラブのライバル?親友のTくん?SNSでつながってるYさん?
同じジャンルで頑張っている人?今まさに隣にいるその人?
小生は少なくとも自分の家族外だったら十分です。
それがプロの人でも、東大の人でも。自分よりも先を走る人から目を背けたらそれは逃げていることになると思います。自分のペースであれば。(自分のペースを忘れたら、小生みたいに体調を悪くします。この辺のさじ加減は難しい笑)
家族。小生にはそれはとても特別なものに思います。
世の中の比較の荒波を乗りこなすためのサーフィンボードのような、そんなイメージです。
要するに最終逃げ道です。背水の陣を敷くような覚悟を持って、その荒波に向かうのは当然としてですけど。
思うに、比較ばかりの世界でいつも生きていられますかね?それって人間ですかね?
社会は人類の発展と共にまたその形を変えてきました。その事実を前にしても、変わらないものってありませんかね?
絶対的な愛と信頼があるのが家族ってもので、それは社会の比較を排除した空間ないし環境じゃないですか?
比較なんて機械でもできるし、機械でもされるものだ。小生は人間なんだ。
どんなに社会がどんどん機械に置き換わっても。小生は人間として今を生きているんだ。
愚痴みたいになってしまってごめんなさい。
妹と比較されてきてもう十何年。もう疲れたんですよね。勉強も。運動も。ノルマみたいな学歴とかも。
確かに自分がまちがっていたときもあったし、それに関しては確実に誠実に信義的にお返ししたし、罪滅ぼしもした。それ以上のお返しもした。それでもかってくらいで、もうつらい。
みなさんはどう思いますか?小生の事案はどうでもいいので、是非考えてみてください。
人間が人間らしく落ち着ける場所。それが家族とか家庭とかいうものだと思うので。
それでは失敬。